日本語の文法について

少し考え違いをしていたのかもしれないと思う。

ある日本語の文章の意味を捉えようとするとき、何かしら文法が役に立つべきだと考えていた。確かに言葉や文章は文法によって構成されているので、その考えに間違いはないだろう。私たちは、何かを喋ろうとするときに、あるいは文章を書くときに、その言葉が文法に適ったものになっているはずだと思っている。

ただ以外に、喋った後で、文章を書いた後で、この言葉、語順では意味が伝わらない、あるいは誤解されたりすると思って、言い換えたり、文章を書きなおしたりする。聞いたり、読んだりするときも同じだ。

ふと思ったのは、言葉の意味を理解するときの文法の役割と意味を伝えようとするときの文法の役割は違うのではないだろうかということだ。

我々は、文章が、言葉が与えられるとその意味を文法に沿って理解していると思う。それは正しいのだが、そのとき、文法の役割はそれほど決定的ではない。英語を話したり聞いたりするときのことを考えれば良い。自分の英語は、文法的に結構間違っているが、ちゃんと伝わっていると思うときが多い。相手も、単語をいくつか聞き取ると、それだけで意味が伝わったと判断しているのだ。

文章の意味を理解しようとするときは、文法も大事だが、状況やイメージもとても大事なのだ。

逆に、意味やイメージを伝える時には、なるべく単純な文法で、必要な単語を構成し、文章、言葉を組み立てれば良い。意味やイメージの伝え方は、多様に存在する。その中で、最も基本的で単純なものを選んでも、伝えるという基本的な機能においては遜色はないのだと思う。