対話の曖昧さ

ほとんどの対話はかなりの曖昧さを持ったまま行われている。肝心なことは、それで用が足りているということだ。確かに次の電車の時間を尋ねるものと答えるものとの間で、伝えようとしたことと聞こうとしたことのポイントがずれることはないかもしれない。しかし、花の美しさを伝えようとするものと、聞こうとするものの間の会話は、曖昧さに支配される。われわれの日常会話の多くが後者のたぐいだ。
私が岩手大学に勤めていた頃だから、もう三十年近く前のことだ。還暦過ぎの母が福井から出て来て、盛岡にあった私の家を訪問した。私たち家族と母は、八幡平の奥にある温泉に出かけた。大浴場に行ったときのことだ。女風呂から先に出てきた妻が私に言った。
「おばあちゃん、地元のおばさんと楽しそうに話していたわ」
しばらくして、母が風呂から出てきた。私は母に聞いた。
「地元の人と何を話していたの?」
母は答えた。
「それが、相手の話が訛っていて、ぜんぜんわからなかったのよ」
母は、妻が外国語と思うほど、福井弁が強烈である。相手は、岩手弁だったのだろう。会話の呈をなしてなかったと思われる。
それでもその会話は母にとって楽しいものだったのに違いない。意味ある会話だったのである。
ロボット相手の会話も、そのような曖昧さがあっていい。